暇と退屈の倫理学

人がなぜ退屈するのかを哲学する

P1:我々は妥協を重ねながら生きている。

こんな言葉からスタートするこちらの本。”暇と退屈の倫理学(國分功一郎著/新潮社)”を今日は紹介していきたいと思います。


冒頭のこの言葉、今の自分の生き方に疑問を持つ人ほど、どきっとしてしまうでしょう。

何か違う。なぜこうなったか。いや、そうじゃない。でも…と考えているうちに、自分を納得させる言葉を探している私たち。


私たちが常日頃感じる「暇」「退屈」を分析してみましょう。


こんな人におすすめ

  • 毎日退屈ばかり感じる人
  • 何を頑張ったらいいのかわからない人
  • 哲学者の思考に興味がある人


要         

文章の構成         

難しくない文章ですが、けっこうなボリュームの本。

1つ1つ解決しながら進んでいく本なので、個人的にはあまり読み飛ばさずに最初から精読していくほうがいいなと思っています。


歴史に沿い、哲学者たちの意見を引用して分析し、人間が思い悩む「暇」「退屈」の正体に迫っていく。そしてその解決方法があるのかどうか考えてみる。

多数引用される哲学者たちの言葉は現代でも十分に納得できるものばかりです。



おおまかな要点       

好きなこととは何か?

人類が豊かさを目指して頑張っているうちは、むしろこんなことを考える余裕なんてなかった。生きるためにやることがいっぱいあった。みんな豊かになって、余裕を持ちたいと思ってきた。そして豊かさを得た…

にもかかわらず、私たちは豊かさを得てやることがなくなった結果、今度は何をしたらいいのかわからないと思い悩み、苦しむようになりました。

それなら豊かになんてならなければよかったんだ。毎日生きるのに必死なままにしておけばよかったんだ…なんて本当に?


私たちは、金銭的・時間的余裕ができたら何をしたいのでしょうか。皆さんには「これがわたしの好きなこと!やりたいこと!」を思えるものがありますか?そしてそれを実行していますか?それは誰かに強制されたものではなく、本当に自分の心からやりたいことですか?サブリミナル効果で広告宣伝により供給され刷り込まれたものではないと言えるでしょうか?

何となく、人生は飾らなくてはならないと思っている。そうでなければ、退屈になってしまうのです。することがないと、怖いのです。



暇と退屈を哲学する

ここからいよいよ、哲学の時間です。

パスカルは言いました。

P33:人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる。


十分な衣食住があるならじっとしていればいいのです。生きることができるのだから。でもそれができない。退屈に耐えられない。追い求めていたら幸せがあると思っている。

がんばっている自分が欲しい。

P43:自分が行動を起こすためのもっともらしい理由を引き出したいからだ

とニーチェも言いました。


「生きている」と感じたいのだと。

そのほか、バートランド・ラッセル、スヴェンセンなど、それぞれの考える「退屈」が紹介されています。


これらをまとめると、退屈の対極にあるのは、自分が興奮できる何かである、と言えそうです。

そう考えると、戦争でもしてたらいいのか…?いや、そんなはずないじゃないか、人がたくさん死ぬほうが不幸なのだから。…本当に?

誰にも答えのわからない、人生の充実を求める迷路に私たちはいるようです。



なぜ人類は退屈するようになったのか

いつからヒトが退屈しているのか

1つの土地にとどまらずに生きる遊動生活をしてきた人類が、約一万年前に気候変動により中緯度帯への定住を余儀なくされ、そこからさまざまな問題が起こった。

ゴミをどうするか、トイレをどうするか、死んだ人はどうするか、簡単に関係をリフレッシュできないからどうするか、食料は…?


問題を解決するために秩序は生まれ、法律というルールを作り、暮らしやすくした。

そんな定住生活の中で、ずっと同じ景色を眺めているのはつまらない。工夫して、常に「今までと違う」何かで刺激を得ようとし、文化をつくり、私たちは生きてきたのだと教えてくれます。



お金の観点

貧乏だから暇がなく、有閑階級なら暇がある。

昔は働かないことがお金のある人間のステータスでした。その暇を楽しむのが特権だった。

それが徐々に労働者階級と有閑階級の差が縮まっていき、労働は貧乏な人がやることではなく、賛美すらされるものになっていくのです。


労働者を無理に働かせても効率が悪いと気づいた経営者は、休暇の管理も始めました。最高の状態で働かせたほうがメリットが大きかったのです。そうして

私たちの休暇(休むこと)すらも労働のため・もしくは労働の一部のような扱いになっていきます。



狩猟採集民は、自由に”必要”なものをとり、一度に使い切って”浪費”する。足りなくなったらまた取る。だから1日に働く時間は3~4時間くらいでよかった。


でも今の私たちはどうでしょう。みんな平等だ、だから求めるものは似ていて、持っていなかったら不安になってしまう。必要以上の”贅沢”を探し、モノだけでなく観念すらも際限なく”消費”する。


そして、個性を持てと広告が煽り、個性的でなければいけないような強迫観念に迫られる。どこに到達したらいいのかわからないのに。

完成することのないものを追い続けて、満たされない退屈を抱えているのだと語られます。



ハイデッガーの分類

マルティン・ハイデッガー、オスヴァルト・シュペングラーなどの哲学者の分析をまとめ、退屈を分類してくれています。


①何かに退屈させられる(やるべき何かに時間を引き留められ、期待しているものは得られず、退屈する。)

②何かに立ち会っている時、よくわからないがなぜか退屈してしまう(参加したパーティは楽しかった。しかし帰ってきてふと気づいたら、どうやら自分は退屈であったと気づいた。気晴らしを探していたその場所そのものが気晴らしだった。)

③なんとなく退屈だ(最も耐え難く、逃れたいもの。自由だ。だからこそ退屈だ。)


この③に気づきたくない。だから私たちは②のような場で気晴らしをし、なんとか③の声をやり過ごしているのだろう、と筆者は語ります。

1つの環境・環世界にとどまっていることができない不安定な存在。それが人間であり、自由度が高いからこそ退屈するのではないか?ハイデッガーやユクスキュルという哲学者たちの考えを提示し、筆者は批判的にそれらの意見を向き合います。



暇と退屈の倫理学

いよいよ、本のタイトルの章です。


私たちは「なんとなく退屈だ」という心の声が聞こえなくなるようにしたい。気晴らしでやり過ごしながら、環境に合わせてたえまなく自分を更新し、つかの間の平穏を繰り返して生きている。


なるべく考えずに済む・暇な時間を求めてきた人間たち。そうして暇を得たら逆に苦しくなってしまい、結局必要なものも退屈なものも入り混じる忙しさの中に生きているという不思議。


与えられた情報の奴隷にならないために、

楽しむ訓練

すら必要なのです。必要な知識や体験を得て、理解・発見・達成を喜ぶ感覚を身につける。


私たちは便利になるほど暇で退屈な時間を得るようになり、その時間をまた別の対象に向けるでしょう。その時、対象が気晴らしではなく心がとりさらわれる何か(自分が没頭する何か)であることを望み、忙しき日々に終わりは見えないかもしれません。



感想         

疲れた…今日こそは休むんだ…!…退屈だ…無駄な1日を過ごしてしまった…何だったんだろう…もっと別のことに時間を使えばよかった…でも別の事ってなんだ?…何がやりたいんだろう…たぶん○○をやっておけばいいのかもしれない…うーんやっぱりなんだか続かなくて退屈だ…


こんなふうに考えたことがある人もいるかもしれません。退屈は悪いことで、人生には意義がなければいけないような気がする。この本を読んで、その”意義”というのは誰かに提示された何かであったのだろうと改めて思いました。


今の私たちは休む時間が与えられている。それをどう使おうと自由です。できれば働かずに不労所得を得たら最高だ。そんなことを考えるのが人間で、でも退屈は嫌いなのが人間です。

そして、「動物」であり「生物」である私たちは、動くことをやめたら死んでしまう。筋肉も神経も使っていなければ衰えるのです。寝たきりになるのがベストなら、ベッドから起きられない状態が最高の人生などど言えるでしょうか?

そう考えると、暇ができようとも一生動き続けるのが人間なのでしょう。

体の動く限り、いくらでも移ろって、退屈を面白くしていけばいい。そう思います。



まとめ        

  • 私たちはじっとしていられない生物
  • 理由なき退屈こそ恐怖
  • 楽しむ訓練をしよう


様々な哲学者とその書籍も登場しますので、その勉強にもなりますね。

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